2026年01月09日

世説新語(劉凝之荊州に隱居す)

書き下し文

劉凝之(りゅうぎょうし)荊州(けいしゅう)に隱居す。適々(たまたま)歳倹(けん)なり。
衡陽(こうよう)王、錢十萬を餉(おく)る。
凝之大に喜び、錢を持して市門に至り。飢色(きしょく)有る者を見て、
悉(ことごと)く之に分與し。俄頃(しばらく)にして都(すべ)て尽きぬ。

現代語訳

劉凝之は荊州に隱居した。その年はたまたま不作で諸事不景気であった。
衡、陽王は気の毒と思って銭十万を送った。
凝は大いに喜んで、その錢を持って市街に出掛け、飢えた者をみるとその
ことごとくを分配し、しばらくするとその銭のすべてが尽きてしまった。

参考)安岡先生はこの本の中で人物学について述べている。
   「はたして人物とはなんであるか」それがあまり普段聞きなれない
    「骨力」という言葉がキーワードのよう。
    いつかそれについてまとめてみたいと思っている。 
posted by 成功の道しるべ at 14:39| 世説新語

2026年01月08日

世説新語(呉郡の陳遺は家至孝なり)

書き下し文

呉郡の陳遺(ちんい)は家至孝(しこう)なり。
母鐺底(とうてい)の焦(しょうけん)を食うことを好む。
遺、郡の主簿となり、恒(つね)に一嚢(いちのう)を裝(おさ)め、食(し)を煮る
毎(ごと)に輒(すなわ)ち焦を貯録し、帰れば以て母に遺(おく)れり。
後、孫恩(そんおん)の賊(ぞく)呉郡に出づるに値(あ)い、
袁府君(えんふくん)即日便(すなわ)ち征す。
遺已(すで)に数斗の焦を聚斂(しゅうれん)し得て、未だ家に展帰せず。
遂(つい)に帶(たい)して以て軍に従い、滬瀆(ことく)闘って敗れ、
軍人潰散(かいさん)し、山沢(さんたく)に逃走し、皆多く餓死せり。
遺独(ひと)り焦を以て活くるを得たり。
時人(じじん)以て純孝の報と爲しき。

現代語訳

呉郡の陳遺はこのうえない孝行であった。
母は釜の底の焦げを食うことが好きであった。
遺は群役所の助役になったが、いつも一つの袋をちゃんと持っており。
ご飯を炊くごとに焦げ飯を蓄え、帰るとそれを母にあげた。
しばらくたって、孫恩の賊が勢力を張って呉郡に現れた。
群の長官、袁氏はただちに征伐に出掛けた。
ところが遺はすでに数斗の焦げを集めていたが家に帰ることが出来ない。
ついにそれを持ったまま軍に従い、呉軍は滬瀆に戦って敗北し、軍人は潰(つぶ)
されて散じて、山や沢へと逃走したが多くの人は餓死してしまった。
遺獨りが焦げを持っていたために生き延びることができたた。
  ♡当時の人たちはこれこそ純粋な親孝行の報いであると語りあった。♡
posted by 成功の道しるべ at 23:18| 世説新語

2026年01月03日

世説新語(王恭.會稽より還る)

書き下し文
王恭(おうきょう).會稽(かいけい)より還(かえ)る。
王大.之を看(み)る。其の六尺の簟(てん)に坐するを見、
因(よ)つて恭に語ぐ、卿(けい)東より來る。故に應(まさ)に此の物有るべし。
一領を以(もっ)て我に及ぼすべしと。恭言、無し。
大去つて後、即(すなわ)ち坐せし所の者を擧げて之を送る。
既に餘席無し、便(すなわ)ち薦上(せんじょう)に坐す。
後大之を聞き、甚だ驚いて曰く、吾本と卿多しと謂(おも)い。
故に求めしのみ。對(こた)へて曰く、丈人(じょうじん)、恭を悉(つく)さず。
恭、人と作なり長物無し。

現代語訳
王恭が浙江省の会稽地方へ出張から帰って来た。
一族の王大がこれをみる。王恭が六尺もあるたかむしろを敷いて
座るのをみてそばによって恭に語った。
あなたは東方の会稽から帰られましたのだから、たかむしろなどは
たくさんあるでしょうから、一枚私に頂けないかと。
恭は黙って答えない。
しかし大が去って後、恭は座っていたたかむしろを畳んですぐに
大に送った。恭には余ったたかむしろは一枚もなく、そのために
こもの上に座った。
それを聞いた大は甚だ驚いて、私は長官であるあなたのことならば
もっとたくさん持っていると思って求めたにすぎないといった。
それに答えて恭がいう。
あなたは私のことをまるで分かっていない。
私は余計な物はなに一つ持たない性格なんだと。
posted by 成功の道しるべ at 09:37| 世説新語
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