書き下し文
屋(おく)数間あり、田(でん)数畝(ほ)あり、盆を用(も)って池となし、
甕(かめ)を以って牖(まど)と為す。
牆(かき)は肩より高く、屋は斗(ます)よりも大なり。
布被(ふひ)の煖(あたたか)なる余、藜羹(れいこう)飽(あ)ける後、気、
胸中より生じて宇宙に充塞(じゅうそく)す。
筆、人間に落ち、瓊玖(けいきゅう)を輝暎(かがやか)す。
人能く止まるを知って以って退くを茂(も)と為す。我れ自ら出でず、
何の退か之れ有らん。心に妄想なく、足に妄走なく、人に妄交なく、物に妄受なし。
淡々之を論じ、其の陋(ろう)に処(お)るに甘んず。
綽々(しゃくしゃく)として之を言い、其の右に出ずるものなし。
羲軒(ぎけん)の書未だ嘗て手を去らず、暁舜の談未だ嘗て口に虚しからず。
中和の天を断じ、楽易の友に同ず、自在の詩を吟じ、歓喜の酒を飲む。
百年の昇平、不遇と為さず、七十の康強、不寿と為さず。
家には2〜3の部屋があり、畑にはいくつかの畝(うね)がある。
盆を池の代わりとし、甕を窓の代替えとして使う、牆は肩より高くし、家は斗より大きい。
木綿の布団とあかざの吸い物(粗末な生活),しかし”気”胸中より
生じて宇宙に満ち満ちる。仙人が人間世界に降りてきてその筆ことごとく珠玉。
自分はやむ得ないで世に出るが何事もこころのまま、自分は出るとか引くとか
茂とか枯れるとかそんな事には縛られない。
心はそんな妄想などないし利欲権勢の為にあっちこっちと歩きまわらない。
同様に下らなあい人間とは交際しないし、またむやみに何かを受けるという事もない。
必要があれば議論もするが粗末な環境に甘んじて出世するしないなど論外で心は自由自在。
只、言、論ずるとなれば我の右に出る者などないだろう、自負がある。
伏犠、軒轅の書物を身近に置いて、暁舜の物語を楽しむ。
天地自然の道理を語り同郷の友と道を楽しむ、ありのままに詩を吟じ歓喜の酒を飲む。
世の中は幸いに長く平和が続いている。歳のすでに70十になったがはなはだ健康で
あるから長生きだとも思わない、短命だとも思わない。
これで”第一章「淡宕」の心境”は終わり。
〜〜〜まさに、自由高邁な老境の自画自賛の一節〜〜〜
参考
羲軒(ぎけん)の書:伏犠、軒轅の書物
暁舜:帝堯、帝舜
2025年11月17日
酔古堂剣掃10(屋数間あり田数畝あり盆を用っ〜)
posted by 成功の道しるべ at 23:24| 酔古堂剣掃
2025年10月25日
酔古堂剣掃「遊学」
「酔古堂剣掃」の第一章の淡宕の心境もあと一編で終わり。
そこで、少し脱線して本書の中の「遊学」についてを抜粋したい。
遊学という言葉がある。遊ぶ学という普通は遊学というと、どこか遠い所へ出かけて勉強
するくらいにしか考えないが、本当の遊学というのは大変奥深く妙味のある言葉である。
これは漢民族が作った言葉ですから漢語である。
従って中国民族、漢民族の歴史から生まれた言葉です。
漢民族は黄河の流域から興った、その前代の殷民族は遊牧民族、狩猟民族です。
それが漢民族になってようやく黄河の流域に定着して農耕生活を営むようになった。
そこで、最初に困ったのが、黄河の氾濫である。
つまり黄河の水処理に非常に苦しんだ、ほとんど黄河の治水記録といっていい。
それで、いろいろと水と戦ったのだが、何しろあの何千キロという河ですから、
紆余曲折して、ある所に治水工事をやると、水はとんでもない所へ転じて、
思わざる所に大変な災害を引き起こす、苦情が絶えない。そこで長い間、
治水に苦しんで到達した結論は、結局水に抵抗しないということであった。
水に抵抗するとその反動がどこへ行くやらわからない、水を無抵抗にする。
すなわち水を自由に遊ばせる。
そこで水をゆっくりと、無抵抗の状態で自ずからに行かしめ、これを「自適」と言った。
適という字は行くという字、思うままに、つまり無抵抗に行く。
抵抗がないから自然に落ちついて、ゆったりと自ずからにして行く。
これが「優遊自適」であります。
そこで「ゆう(游、遊)」という字はサンズイでもシンニュウでもいい。
サンズイならば水を表したものだし、シンニュウはその水路を表したもので、
黄河の治水工事の結論は、水をして悠々自適せしめるにある。
それは人間でも同じことである、抵抗して戦っていくのは、これは苦しい。
つまり、自ずからにして思うがままに行けるということは、黄河ならぬ人間にも
非常に楽しいことで、それが極致であります。
そこで学問もそういうやり方を遊学という。
「学記」の中に「四焉(しえん)」という非常にいい格言がある。
学問というのは、「焉(これ)を修め、焉を蔵し、焉に息し、焉に遊ぶ」
つまり学問というものは、これを習得して、それを体恤し、それを自在に応用する。
そうすると、ゆったりと無理がない。
抵抗なしに「焉に遊ぶ」ことになる。これが優遊自適である。
それで初めて古人が遊説とか遊学、遊の字をよく使うことがわかる
そこで、少し脱線して本書の中の「遊学」についてを抜粋したい。
遊学という言葉がある。遊ぶ学という普通は遊学というと、どこか遠い所へ出かけて勉強
するくらいにしか考えないが、本当の遊学というのは大変奥深く妙味のある言葉である。
これは漢民族が作った言葉ですから漢語である。
従って中国民族、漢民族の歴史から生まれた言葉です。
漢民族は黄河の流域から興った、その前代の殷民族は遊牧民族、狩猟民族です。
それが漢民族になってようやく黄河の流域に定着して農耕生活を営むようになった。
そこで、最初に困ったのが、黄河の氾濫である。
つまり黄河の水処理に非常に苦しんだ、ほとんど黄河の治水記録といっていい。
それで、いろいろと水と戦ったのだが、何しろあの何千キロという河ですから、
紆余曲折して、ある所に治水工事をやると、水はとんでもない所へ転じて、
思わざる所に大変な災害を引き起こす、苦情が絶えない。そこで長い間、
治水に苦しんで到達した結論は、結局水に抵抗しないということであった。
水に抵抗するとその反動がどこへ行くやらわからない、水を無抵抗にする。
すなわち水を自由に遊ばせる。
そこで水をゆっくりと、無抵抗の状態で自ずからに行かしめ、これを「自適」と言った。
適という字は行くという字、思うままに、つまり無抵抗に行く。
抵抗がないから自然に落ちついて、ゆったりと自ずからにして行く。
これが「優遊自適」であります。
そこで「ゆう(游、遊)」という字はサンズイでもシンニュウでもいい。
サンズイならば水を表したものだし、シンニュウはその水路を表したもので、
黄河の治水工事の結論は、水をして悠々自適せしめるにある。
それは人間でも同じことである、抵抗して戦っていくのは、これは苦しい。
つまり、自ずからにして思うがままに行けるということは、黄河ならぬ人間にも
非常に楽しいことで、それが極致であります。
そこで学問もそういうやり方を遊学という。
「学記」の中に「四焉(しえん)」という非常にいい格言がある。
学問というのは、「焉(これ)を修め、焉を蔵し、焉に息し、焉に遊ぶ」
つまり学問というものは、これを習得して、それを体恤し、それを自在に応用する。
そうすると、ゆったりと無理がない。
抵抗なしに「焉に遊ぶ」ことになる。これが優遊自適である。
それで初めて古人が遊説とか遊学、遊の字をよく使うことがわかる
posted by 成功の道しるべ at 19:15| 酔古堂剣掃
2025年10月24日
酔古堂剣掃09(地を闢くこと数畝。屋を築く数楹)
書き下し文
地を闢(ひら)くこと数畝(ほ)。屋を築く数楹(えい)。
花を挿(さしはさ)みて籬(まがき)を作り。茅(かや)を編みて亭を為(つく)る。
一畝を以って竹樹を蔭(しげ)らしめ。一畝は花果を裁(う)え、
二畝は瓜菜(かさい)を種(う)う。
四壁清曠(せいこう)にして諸(もろもろ)の所有空し。
山童を畜(やしな)い、園に灌(そそ)ぎ、草を薙(か)る。
二三の胡床(こしょう)を置いて亭下に着け、書硯(しょけん)を挟んで以て孤寂を伴とし、
琴奕(きんえき)を携えて以て良友を遅(ま)つ。
凌晨には策を杖き、薄暮言に旋る。此れ亦楽境。
現代語訳
荒地を開拓すること家のまわりを軽く散歩する範囲。
そこに小さな庵を建てる。そして、花を差し込んだ籬を作る。
また、土地の一角に茅を編みてあずまやを作る。
僅かな土地に竹を茂らせ、花や果物の木を植える。
また、瓜や野菜を種える。こういう簡素な生活の中で極めて豊かな、風雅な生活を
営むことができる。純朴な少年と戯れ、草木に水をやり雑草を刈る。
二三の簡素な腰掛けをあずまやに置いて、書を嗜みながら一人孤寂を伴とし
琴や将棋盤、碁盤を用意して良友を待つ。
早朝には杖を突きながら散歩をし、黄昏(たそがれ)書物に親しむ。
これぞ楽境。
地を闢(ひら)くこと数畝(ほ)。屋を築く数楹(えい)。
花を挿(さしはさ)みて籬(まがき)を作り。茅(かや)を編みて亭を為(つく)る。
一畝を以って竹樹を蔭(しげ)らしめ。一畝は花果を裁(う)え、
二畝は瓜菜(かさい)を種(う)う。
四壁清曠(せいこう)にして諸(もろもろ)の所有空し。
山童を畜(やしな)い、園に灌(そそ)ぎ、草を薙(か)る。
二三の胡床(こしょう)を置いて亭下に着け、書硯(しょけん)を挟んで以て孤寂を伴とし、
琴奕(きんえき)を携えて以て良友を遅(ま)つ。
凌晨には策を杖き、薄暮言に旋る。此れ亦楽境。
現代語訳
荒地を開拓すること家のまわりを軽く散歩する範囲。
そこに小さな庵を建てる。そして、花を差し込んだ籬を作る。
また、土地の一角に茅を編みてあずまやを作る。
僅かな土地に竹を茂らせ、花や果物の木を植える。
また、瓜や野菜を種える。こういう簡素な生活の中で極めて豊かな、風雅な生活を
営むことができる。純朴な少年と戯れ、草木に水をやり雑草を刈る。
二三の簡素な腰掛けをあずまやに置いて、書を嗜みながら一人孤寂を伴とし
琴や将棋盤、碁盤を用意して良友を待つ。
早朝には杖を突きながら散歩をし、黄昏(たそがれ)書物に親しむ。
これぞ楽境。
posted by 成功の道しるべ at 22:10| 酔古堂剣掃
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