論語についての歴史的な考察や、いわゆる学者諸氏の論説は数多くある。
しかし、下村湖人氏のように自身の考えをこのように、まとめたものも
良いのではないか?
少し長いが、ご容赦願いたい。
「論語」を読む要点の一つは、その時代的背景を一応心得ておくことである。
このことは、「論語」が政治の書であるだけに、政治とは無縁な仏典やバイブルを読む
場合に比して、はるかにその重要度が高い。それについて簡単にふれておきたいと思う。
孔子は西紀前五五二年に生れ、同四七九年七十四才で歿した。
この時代は、中国の歴史の春秋時代の末期、夏・殷・周と受け継いで来た三代の
王朝の最後の王朝たる周室が、全くその権威を失って、十二の諸侯が覇権を争い、
しかもその諸侯も内部的に決して安全ではなく、内乱が頻発して、徐々に政治の実権が
下にうつり、ほとんど無政府的な混乱状態を呈しつつあった時代である。
周王朝の政治組織は諸侯をその下に従えていたという意味でもとより封建制度である。
有力な諸侯の大部分は周室の同族で、同じ宗廟を持ち、祭祀を共にする宗族関係で
周室に結ばれており、しかもこの関係は、氏族を異にする侯国以下との間にも、
社稷(土地の神・穀物の神)を祭ることによって延長されていたのである。
だから、周代の国家は、封建国家というよりも、むしろ祭政一致の宗族国家と
いう方が適当であった。
そして、それに基づいて、天子・諸侯・卿・大夫・士・庶民というように、厳格に
身分が定まっており、祭祀・礼法のごときもその身分に応じてそれぞれの規定があり、
それをみだすことは、国家の秩序や道義をみだす最大の悪徳とされていたのである。
孔子は、かような国家組織の中に生をうけたのであるが、その組織の根本については
何の疑惑も抱いてはいなかった。
それどころか、周祖武王をたすけてその組織に基礎をおいた周公(武王の叔父)は、
彼にとっては、いわゆる古聖人の一人だったのである。
しかも彼の生地魯国(中国山東省曲阜県、当時の魯国昌平郷陬邑)は、周公の子孫の
国で、その宗廟には周公が祭られており、いわば周室の政治と道義の主本尊ともいう
べき位置にあった。
かくて彼は、周室の諸制度について疑惑を抱くどころか、それを至上のものと考え、
誇りをもってその研究に精進することを念願した。
「論語」にいわゆる「十有五にして学に志す」とあるのも、少年時代における彼の、
この意味での精進を物語るものに外ならないのである。
かような彼が、春秋末期の諸侯・諸卿・諸大夫の下剋上や、僣上沙汰や、権力争いや、
利害本位の取引きや、武力抗争等について、深い憂いと怒りとを感じたで
あろうことはいうまでもない。
そしてまた、それがいよいよ彼の研学心や教育熱に拍車をかけ、実際政治に対する
彼の欲望をそそり、そして彼の苦難にみちた諸国巡歴の旅への大きな刺戟になったで
あろうことも、疑いを容れないところである。
論語には、彼のそうした憂いや怒りの言葉が、いたるところに散見される。
否、考えようでは、「論語」の言葉のすべてが、周朝の政治と道義の維持昂揚のための
言葉であったといえないこともない。
そしてここに、論語を読む者の心しなければならない重要な二点があるのである。
その第一は、論語の言葉のあるものは、今日の時代においては、文字どおりに
受け容れられるものではなく、強いて受け容れようとしてはならないということであり、
その第二は、しかし、だからといって、「論語」をただちに時代錯誤の書として早計に
すててしまってはならないということである。
なるほど孔子は、中国周代の民として、周公によって基礎をおかれた当時の諸制度を
讃美し、その精神を生かすことに努力した。
その点で、まぎれもなく彼は封建的宗族国家の忠実な一員であった。
従って彼の言行のあるものは、その表面にあらわれたかぎりにおいて、今日の我々には
むしろ奇異に感じられ、しばしば滑稽にさえ感じられるものがある。
特に、論語の中で彼の坐作進退を記した条下や、彼が祭祀その他の礼の形式に関して
語るのを読む場合においてそうである。
また彼が治者被治者の関係について語る言葉については、おそらく今日の何人も重大な
疑問を抱かずにはいられないであろう。
そして、そうした点から、論語が今の日本人の意識の中で影がうすくなって行くことも、
一応うなずけないことではない。
では、論語は、周代の封建的宗族国家の経典以上の何ものでもないかというと、
決してそうではない。
かりに論語から周代の色をおびていると思われる一切の表現を消し去って見るがいい。
また、今日から見て少しでも時代錯誤だと思われる表現があったら、
それをも遠慮なく消し去って見るがいい。
そのあとに何も残らないかというと、むしろ残るものの多きにおどろくであろう。
しかもそれらはすべて古今を貫き東西を貫く普遍の真理であり、そしてそれらの真理が、
時代錯誤だと思われ、周代の考え方だと思われる表現の底にも、厳として存在している
ことに気づくであろう。
論語を通じて見た孔子は、決して単なる周代の忠実な封建人ではなかった。
またむろん事大的曲学阿世の徒でもなかった。
仁に立脚して知を研き、詩と楽とを愛して調和に生き、敬慎事に当り、勇断事を処し、
剛毅正を守る底の万世の師が、たまたま周代の衣を着、周代の粟を食み、周代の
事を憂え、周代の事に当ったが故に、周代の色を帯びたまでのことなのである。
かくて論語は周代の皮に包まれた真理の果実であるということが出来よう。
われわれはその皮におどろいて果肉をすててはならないし、さればといって、
皮ごとうのみにしてもならない。
皮をはいで果肉をたべる、これが要するに「論語」の正しい読みかたなのである。
完
2025年01月20日
論語とは?完(下村湖人、曰く)
posted by 成功の道しるべ at 11:40| 下村湖人
2025年01月17日
論語とは?続2(下村湖人、曰く)
続き
論語が「政治の書」であるということは、同時にそれが「未来世の書」でなくて
「現世の書」であり、「神の書」でなくて「人間の書」であるということを意味する。
その点で、等しく「精神の書」ではあっても、仏典やバイブルとは全くその立脚点を
異にするのである。
そしてこのことが、孔子自身の性格とその修徳の過程を物語るものである。
古来聖者のと呼ばれている人々の中で、孔子ほど常識的・現世的な人はないであろう。
彼には、その一生を通じて、ほとんど神秘的・奇蹟的な匂いがなく、また従って、
その向上の道程において、天啓とか霊感による、いちじるしい飛躍の瞬間がなかった。
つまり彼は、自分の置かれた環境において、日常生活を丹念に磨きあげ、一歩一歩と
自分の世界を昂揚し、拡大しつつ、あくまでも現実に即して現世の理想を構築し、
そしてその理想が、超自然の力をかることなく、人間自からのたゆまざる努力によって
実現可能なことを証明しようとした人なのである。
孔子にも、なるほど「天」の思想があり、天帝に対する厳粛な信仰があった。
その点で彼に宗教的なものが全然なかったとはいえない。
しかしその「天」は、人間をその罪悪と苦悩から無差別平等に救済せんとする
大悲大慈の力ではなく、むしろ静かに人間個々の境遇や、能力や、努力のあとを
照覧しつつ、それぞれの運命乃至使命を決定する力、即ち神というよりはむしろ
自然法というに近いものであったのである。
彼が「天命を知る」という時、それは彼が彼自身を道徳的に鍛錬することによって
生み出した自信の叫びであって、決して遠い天上からの神秘的啓示による飛躍を
意味するものではなかった。
彼は、かくて、天を語る時において、あくまでもその足を地上に立て、その眼を地上に
そそぎ、その全心全霊を、人間自らの力による人間社会の秩序立て、いいかえると
政治の理想化にぶちこんでいたのである。
「述べて作らず」これが孔子の学問の態度であり、また教育者としての態度であった。
その意は、古聖人の道を祖述することで、自己よって新しい道徳律を作るのではない。
古聖人とは、孔子においては、「大学」にいうところの「明徳を明らかにした」地上の
人であり「修身・斉家・治国・平天下」を実現した理想的為政家であって、決して現世を
超越した神秘的存在ではなかった。
もっとも、それほどの人物が果して史上に実存したかは頗る疑わしいのであって、
むしろそれは孔子自身の修徳をとおして描き出された理想の象徴であり、創作であると
見る方が正しいのではないかと思われるが、孔子自身にとっては、それはあくまでも
実存の人物であったと信じられていたのである。
ここに孔子の現世的性格と現世的修養の道程とが明らかにうかがわれる。
すなわち、彼にとっては、人間の理想社会の実現は決して人間自身の努力の限界を
こえたものではなく、それは政治の理想化によって可能であり、そしてその実証として
過去の歴史に聖人の治績があったわけなのである。
続
論語が「政治の書」であるということは、同時にそれが「未来世の書」でなくて
「現世の書」であり、「神の書」でなくて「人間の書」であるということを意味する。
その点で、等しく「精神の書」ではあっても、仏典やバイブルとは全くその立脚点を
異にするのである。
そしてこのことが、孔子自身の性格とその修徳の過程を物語るものである。
古来聖者のと呼ばれている人々の中で、孔子ほど常識的・現世的な人はないであろう。
彼には、その一生を通じて、ほとんど神秘的・奇蹟的な匂いがなく、また従って、
その向上の道程において、天啓とか霊感による、いちじるしい飛躍の瞬間がなかった。
つまり彼は、自分の置かれた環境において、日常生活を丹念に磨きあげ、一歩一歩と
自分の世界を昂揚し、拡大しつつ、あくまでも現実に即して現世の理想を構築し、
そしてその理想が、超自然の力をかることなく、人間自からのたゆまざる努力によって
実現可能なことを証明しようとした人なのである。
孔子にも、なるほど「天」の思想があり、天帝に対する厳粛な信仰があった。
その点で彼に宗教的なものが全然なかったとはいえない。
しかしその「天」は、人間をその罪悪と苦悩から無差別平等に救済せんとする
大悲大慈の力ではなく、むしろ静かに人間個々の境遇や、能力や、努力のあとを
照覧しつつ、それぞれの運命乃至使命を決定する力、即ち神というよりはむしろ
自然法というに近いものであったのである。
彼が「天命を知る」という時、それは彼が彼自身を道徳的に鍛錬することによって
生み出した自信の叫びであって、決して遠い天上からの神秘的啓示による飛躍を
意味するものではなかった。
彼は、かくて、天を語る時において、あくまでもその足を地上に立て、その眼を地上に
そそぎ、その全心全霊を、人間自らの力による人間社会の秩序立て、いいかえると
政治の理想化にぶちこんでいたのである。
「述べて作らず」これが孔子の学問の態度であり、また教育者としての態度であった。
その意は、古聖人の道を祖述することで、自己よって新しい道徳律を作るのではない。
古聖人とは、孔子においては、「大学」にいうところの「明徳を明らかにした」地上の
人であり「修身・斉家・治国・平天下」を実現した理想的為政家であって、決して現世を
超越した神秘的存在ではなかった。
もっとも、それほどの人物が果して史上に実存したかは頗る疑わしいのであって、
むしろそれは孔子自身の修徳をとおして描き出された理想の象徴であり、創作であると
見る方が正しいのではないかと思われるが、孔子自身にとっては、それはあくまでも
実存の人物であったと信じられていたのである。
ここに孔子の現世的性格と現世的修養の道程とが明らかにうかがわれる。
すなわち、彼にとっては、人間の理想社会の実現は決して人間自身の努力の限界を
こえたものではなく、それは政治の理想化によって可能であり、そしてその実証として
過去の歴史に聖人の治績があったわけなのである。
続
posted by 成功の道しるべ at 14:38| 下村湖人
論語とは?続1(下村湖人、曰く)
論語とは?
前回の続き
かような急激な退潮、――約千五百年間に亘って高潮しつづけて来たものが、
百年とはたたないうちに底を見せるほどのかような急激な退潮が、果して何に
起因するかについては、ここではふれない。
今はただ、それが、よかれあしかれ、まぎれもない事実であるということだけを
認識するにとどめておきたい。
しかし、この事実を認識するについて、忘れてならないことがある。
それは、そうした急激な退潮は、主として国民意識の表面において行われた
ことであって、必ずしも生活の事実においてではないということである。
むろん意識の表面にあらわれる変化が、生活の事実に何の変化も及ぼさない
ということは全くあり得ないことで、
その意味で、明治以後の国民生活から、儒教的なものがかなりの
退潮を示していることはもちろんである。
しかし、それは決して意識の表面においてのように底を見せるほど甚しいもので
はなかった。
いや、もっと適切にいうと、底は見せながら、その底にしみとおった儒教的なしめり気が、
今もなお国民生活の根をうるおしており、そしてそのしめり気は、次第に眼には
見えなくなるかも知れないが、容易に蒸発してしまいそうには思えないのである。
この事実を認識することは国民にとって極めて重要なことである。
というのは、それは、やがて国民をして、儒教の諸経典中、せめて「論語」ぐらいは、
もう一度意識の表面に浮かびあがらせることの必要を痛感せしめるであろうからである。
私は、このことを、必ずしも儒教精神の復活を希う意味においていっているのではない。
ただ私は、儒教精神が、よかれあしかれ、今もなお相当の力をもって国民生活の事実を
動かしている以上、国民は当然その精神を研究批判の対象として意識的に
取りあぐべきであり、そしてそのためには、少くも「論語」ぐらいは広く国民の間に
読まるべきであると思うのである。
論語を読むにあたってわれわれの忘れてならないことは、それが「精神の書」であり、
「道徳の書」であると共に「政治の書」であるということである。
この点で、政治とはかかわりなく、或はむしろ政治否定の立場に立って、人間の幸福
乃至社会秩序の維持を、純粋に個々の人間の魂に求めようとしたキリスト教や仏教の
諸経典とは、いちじるしく趣を異にしているのである。
論語の中で、理想的人物、或は理想に近い人物を表現するために、「聖人」「仁者」
「知者」「君子」等の言葉がしばしば用いられているが、それらが、精神的・道徳的に
すぐれた人物を意味することはいうまでもない。
しかし、精神的・道徳的にすぐれた人物は、「論語」においては、常に為政家として
すぐれた人物であることをも同時に意味しているのである。
むろん、だからといって、修徳の目的が政治的権勢の獲得にあるというのではない。
権勢の位置につくかどうかは天命によって決する。
しかし、天命は必ず有徳の人に下るべきであり、そして修徳の理想は天命をうけて
それに恥じないだけの資格を身につけることにあるというのが「論語」を一貫して
流れている思想なのである。
その意味で「論語」はまぎれもなく「政治の書」であり、そのことを忘れては「論語」を
正しく解することは不可能なのである。
続
前回の続き
かような急激な退潮、――約千五百年間に亘って高潮しつづけて来たものが、
百年とはたたないうちに底を見せるほどのかような急激な退潮が、果して何に
起因するかについては、ここではふれない。
今はただ、それが、よかれあしかれ、まぎれもない事実であるということだけを
認識するにとどめておきたい。
しかし、この事実を認識するについて、忘れてならないことがある。
それは、そうした急激な退潮は、主として国民意識の表面において行われた
ことであって、必ずしも生活の事実においてではないということである。
むろん意識の表面にあらわれる変化が、生活の事実に何の変化も及ぼさない
ということは全くあり得ないことで、
その意味で、明治以後の国民生活から、儒教的なものがかなりの
退潮を示していることはもちろんである。
しかし、それは決して意識の表面においてのように底を見せるほど甚しいもので
はなかった。
いや、もっと適切にいうと、底は見せながら、その底にしみとおった儒教的なしめり気が、
今もなお国民生活の根をうるおしており、そしてそのしめり気は、次第に眼には
見えなくなるかも知れないが、容易に蒸発してしまいそうには思えないのである。
この事実を認識することは国民にとって極めて重要なことである。
というのは、それは、やがて国民をして、儒教の諸経典中、せめて「論語」ぐらいは、
もう一度意識の表面に浮かびあがらせることの必要を痛感せしめるであろうからである。
私は、このことを、必ずしも儒教精神の復活を希う意味においていっているのではない。
ただ私は、儒教精神が、よかれあしかれ、今もなお相当の力をもって国民生活の事実を
動かしている以上、国民は当然その精神を研究批判の対象として意識的に
取りあぐべきであり、そしてそのためには、少くも「論語」ぐらいは広く国民の間に
読まるべきであると思うのである。
論語を読むにあたってわれわれの忘れてならないことは、それが「精神の書」であり、
「道徳の書」であると共に「政治の書」であるということである。
この点で、政治とはかかわりなく、或はむしろ政治否定の立場に立って、人間の幸福
乃至社会秩序の維持を、純粋に個々の人間の魂に求めようとしたキリスト教や仏教の
諸経典とは、いちじるしく趣を異にしているのである。
論語の中で、理想的人物、或は理想に近い人物を表現するために、「聖人」「仁者」
「知者」「君子」等の言葉がしばしば用いられているが、それらが、精神的・道徳的に
すぐれた人物を意味することはいうまでもない。
しかし、精神的・道徳的にすぐれた人物は、「論語」においては、常に為政家として
すぐれた人物であることをも同時に意味しているのである。
むろん、だからといって、修徳の目的が政治的権勢の獲得にあるというのではない。
権勢の位置につくかどうかは天命によって決する。
しかし、天命は必ず有徳の人に下るべきであり、そして修徳の理想は天命をうけて
それに恥じないだけの資格を身につけることにあるというのが「論語」を一貫して
流れている思想なのである。
その意味で「論語」はまぎれもなく「政治の書」であり、そのことを忘れては「論語」を
正しく解することは不可能なのである。
続
posted by 成功の道しるべ at 10:16| 下村湖人
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