書き下し文
呉郡の陳遺(ちんい)は家至孝(しこう)なり。
母鐺底(とうてい)の焦(しょうけん)を食うことを好む。
遺、郡の主簿となり、恒(つね)に一嚢(いちのう)を裝(おさ)め、食(し)を煮る
毎(ごと)に輒(すなわ)ち焦を貯録し、帰れば以て母に遺(おく)れり。
後、孫恩(そんおん)の賊(ぞく)呉郡に出づるに値(あ)い、
袁府君(えんふくん)即日便(すなわ)ち征す。
遺已(すで)に数斗の焦を聚斂(しゅうれん)し得て、未だ家に展帰せず。
遂(つい)に帶(たい)して以て軍に従い、滬瀆(ことく)闘って敗れ、
軍人潰散(かいさん)し、山沢(さんたく)に逃走し、皆多く餓死せり。
遺独(ひと)り焦を以て活くるを得たり。
時人(じじん)以て純孝の報と爲しき。
現代語訳
呉郡の陳遺はこのうえない孝行であった。
母は釜の底の焦げを食うことが好きであった。
遺は群役所の助役になったが、いつも一つの袋をちゃんと持っており。
ご飯を炊くごとに焦げ飯を蓄え、帰るとそれを母にあげた。
しばらくたって、孫恩の賊が勢力を張って呉郡に現れた。
群の長官、袁氏はただちに征伐に出掛けた。
ところが遺はすでに数斗の焦げを集めていたが家に帰ることが出来ない。
ついにそれを持ったまま軍に従い、呉軍は滬瀆に戦って敗北し、軍人は潰(つぶ)
されて散じて、山や沢へと逃走したが多くの人は餓死してしまった。
遺獨りが焦げを持っていたために生き延びることができたた。
当時の人たちはこれこそ純粋な親孝行の報いであると語りあった。
2026年01月08日
世説新語(呉郡の陳遺は家至孝なり)
posted by 成功の道しるべ at 23:18| 世説新語
検索ボックス
