2025年10月25日

酔古堂剣掃「遊学」

「酔古堂剣掃」の第一章の淡宕の心境もあと一編で終わり。

そこで、少し脱線して本書の中の「遊学」についてを抜粋したい。

遊学という言葉がある。遊ぶ学という普通は遊学というと、どこか遠い所へ出かけて勉強
するくらいにしか考えないが、本当の遊学というのは大変奥深く妙味のある言葉である。
これは漢民族が作った言葉ですから漢語である。
従って中国民族、漢民族の歴史から生まれた言葉です。
漢民族は黄河の流域から興った、その前代の殷民族は遊牧民族、狩猟民族です。

それが漢民族になってようやく黄河の流域に定着して農耕生活を営むようになった。
そこで、最初に困ったのが、黄河の氾濫である。
つまり黄河の水処理に非常に苦しんだ、ほとんど黄河の治水記録といっていい。
それで、いろいろと水と戦ったのだが、何しろあの何千キロという河ですから、
紆余曲折して、ある所に治水工事をやると、水はとんでもない所へ転じて、
思わざる所に大変な災害を引き起こす、苦情が絶えない。そこで長い間、
治水に苦しんで到達した結論は、結局水に抵抗しないということであった。

水に抵抗するとその反動がどこへ行くやらわからない、水を無抵抗にする。
すなわち水を自由に遊ばせる。
そこで水をゆっくりと、無抵抗の状態で自ずからに行かしめ、これを「自適」と言った。
適という字は行くという字、思うままに、つまり無抵抗に行く。
抵抗がないから自然に落ちついて、ゆったりと自ずからにして行く。
これが「優遊自適」であります。

そこで「ゆう(游、遊)」という字はサンズイでもシンニュウでもいい。
サンズイならば水を表したものだし、シンニュウはその水路を表したもので、
黄河の治水工事の結論は、水をして悠々自適せしめるにある。
それは人間でも同じことである、抵抗して戦っていくのは、これは苦しい。
つまり、自ずからにして思うがままに行けるということは、黄河ならぬ人間にも
非常に楽しいことで、それが極致であります。

そこで学問もそういうやり方を遊学という。 
「学記」の中に「四焉(しえん)」という非常にいい格言がある。
学問というのは、「焉(これ)を修め、焉を蔵し、焉に息し、焉に遊ぶ」
つまり学問というものは、これを習得して、それを体恤し、それを自在に応用する。
そうすると、ゆったりと無理がない。
抵抗なしに「焉に遊ぶ」ことになる。これが優遊自適である。
それで初めて古人が遊説とか遊学、遊の字をよく使うことがわかる
posted by 成功の道しるべ at 19:15| 酔古堂剣掃
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