続き
論語が「政治の書」であるということは、同時にそれが「未来世の書」でなくて
「現世の書」であり、「神の書」でなくて「人間の書」であるということを意味する。
その点で、等しく「精神の書」ではあっても、仏典やバイブルとは全くその立脚点を
異にするのである。
そしてこのことが、孔子自身の性格とその修徳の過程を物語るものである。
古来聖者のと呼ばれている人々の中で、孔子ほど常識的・現世的な人はないであろう。
彼には、その一生を通じて、ほとんど神秘的・奇蹟的な匂いがなく、また従って、
その向上の道程において、天啓とか霊感による、いちじるしい飛躍の瞬間がなかった。
つまり彼は、自分の置かれた環境において、日常生活を丹念に磨きあげ、一歩一歩と
自分の世界を昂揚し、拡大しつつ、あくまでも現実に即して現世の理想を構築し、
そしてその理想が、超自然の力をかることなく、人間自からのたゆまざる努力によって
実現可能なことを証明しようとした人なのである。
孔子にも、なるほど「天」の思想があり、天帝に対する厳粛な信仰があった。
その点で彼に宗教的なものが全然なかったとはいえない。
しかしその「天」は、人間をその罪悪と苦悩から無差別平等に救済せんとする
大悲大慈の力ではなく、むしろ静かに人間個々の境遇や、能力や、努力のあとを
照覧しつつ、それぞれの運命乃至使命を決定する力、即ち神というよりはむしろ
自然法というに近いものであったのである。
彼が「天命を知る」という時、それは彼が彼自身を道徳的に鍛錬することによって
生み出した自信の叫びであって、決して遠い天上からの神秘的啓示による飛躍を
意味するものではなかった。
彼は、かくて、天を語る時において、あくまでもその足を地上に立て、その眼を地上に
そそぎ、その全心全霊を、人間自らの力による人間社会の秩序立て、いいかえると
政治の理想化にぶちこんでいたのである。
「述べて作らず」これが孔子の学問の態度であり、また教育者としての態度であった。
その意は、古聖人の道を祖述することで、自己よって新しい道徳律を作るのではない。
古聖人とは、孔子においては、「大学」にいうところの「明徳を明らかにした」地上の
人であり「修身・斉家・治国・平天下」を実現した理想的為政家であって、決して現世を
超越した神秘的存在ではなかった。
もっとも、それほどの人物が果して史上に実存したかは頗る疑わしいのであって、
むしろそれは孔子自身の修徳をとおして描き出された理想の象徴であり、創作であると
見る方が正しいのではないかと思われるが、孔子自身にとっては、それはあくまでも
実存の人物であったと信じられていたのである。
ここに孔子の現世的性格と現世的修養の道程とが明らかにうかがわれる。
すなわち、彼にとっては、人間の理想社会の実現は決して人間自身の努力の限界を
こえたものではなく、それは政治の理想化によって可能であり、そしてその実証として
過去の歴史に聖人の治績があったわけなのである。
続
2025年01月17日
論語とは?続2(下村湖人、曰く)
posted by 成功の道しるべ at 14:38| 下村湖人
検索ボックス