2025年01月17日

論語とは?続1(下村湖人、曰く)

論語とは?
前回の続き

かような急激な退潮、――約千五百年間に亘って高潮しつづけて来たものが、
百年とはたたないうちに底を見せるほどのかような急激な退潮が、果して何に
起因するかについては、ここではふれない。
今はただ、それが、よかれあしかれ、まぎれもない事実であるということだけを
認識するにとどめておきたい。
しかし、この事実を認識するについて、忘れてならないことがある。
それは、そうした急激な退潮は、主として国民意識の表面において行われた
ことであって、必ずしも生活の事実においてではないということである。
むろん意識の表面にあらわれる変化が、生活の事実に何の変化も及ぼさない
ということは全くあり得ないことで、
その意味で、明治以後の国民生活から、儒教的なものがかなりの
退潮を示していることはもちろんである。

しかし、それは決して意識の表面においてのように底を見せるほど甚しいもので
はなかった。
いや、もっと適切にいうと、底は見せながら、その底にしみとおった儒教的なしめり気が、
今もなお国民生活の根をうるおしており、そしてそのしめり気は、次第に眼には
見えなくなるかも知れないが、容易に蒸発してしまいそうには思えないのである。
この事実を認識することは国民にとって極めて重要なことである。
というのは、それは、やがて国民をして、儒教の諸経典中、せめて「論語」ぐらいは、
もう一度意識の表面に浮かびあがらせることの必要を痛感せしめるであろうからである。
私は、このことを、必ずしも儒教精神の復活を希う意味においていっているのではない。
ただ私は、儒教精神が、よかれあしかれ、今もなお相当の力をもって国民生活の事実を
動かしている以上、国民は当然その精神を研究批判の対象として意識的に
取りあぐべきであり、そしてそのためには、少くも「論語」ぐらいは広く国民の間に
読まるべきであると思うのである。

論語を読むにあたってわれわれの忘れてならないことは、それが「精神の書」であり、
「道徳の書」であると共に「政治の書」であるということである。
この点で、政治とはかかわりなく、或はむしろ政治否定の立場に立って、人間の幸福
乃至社会秩序の維持を、純粋に個々の人間の魂に求めようとしたキリスト教や仏教の
諸経典とは、いちじるしく趣を異にしているのである。
論語の中で、理想的人物、或は理想に近い人物を表現するために、「聖人」「仁者」
「知者」「君子」等の言葉がしばしば用いられているが、それらが、精神的・道徳的に
すぐれた人物を意味することはいうまでもない。
しかし、精神的・道徳的にすぐれた人物は、「論語」においては、常に為政家として
すぐれた人物であることをも同時に意味しているのである。
むろん、だからといって、修徳の目的が政治的権勢の獲得にあるというのではない。
権勢の位置につくかどうかは天命によって決する。
しかし、天命は必ず有徳の人に下るべきであり、そして修徳の理想は天命をうけて
それに恥じないだけの資格を身につけることにあるというのが「論語」を一貫して
流れている思想なのである。
その意味で「論語」はまぎれもなく「政治の書」であり、そのことを忘れては「論語」を
正しく解することは不可能なのである。



posted by 成功の道しるべ at 10:16| 下村湖人
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