ここ暫く論語をお休みしているが、その時代的な役割、成立、などを下村湖人の言を
通してここに記したいと思う。
「論語」を読む人のために
東洋を知るには儒教を,儒教を知るには孔子を,そして孔子を知るには「論語」を知る必要がある。
論語は、孔子、儒教、また東洋を理解する貴重な鍵の一つである。
論語は、孔子の言行を主とし、それに門人たちの言葉をも加えて編纂したものであるが、
すべて断片的で、各篇各章の間に、何等はっきりした脈絡や系統がない。
今日から見ると極めて雑然たる集録に過ぎないが、それだけに、編纂者の主観によって
ゆがめられた点は比較的少いであろう。
論語」編纂の年代、ならびにその編纂者が何びとであるかは、十分つまびらかにされていない。
しかし、孔子の没後いくらかの年月をへたあと、すなわち西紀前およそ四百数十年ごろ、
門人の門人たちの手によって編纂されたものであることは、ほぼ確実なようである。
論語という書名は、孔子の直接の門人たちが記録しておいたものを、編纂者たちが、
おたがいに意見を交換し論議しつつ撰定したという意味で名付けられたものであろうと
信ぜられている。
☆
論語は、秦の始皇が天下を統一した時、いわゆる焚書の厄に会った。
その後発見され、その論語に三種あり。
その第一は斉の国から、第二は魯の国から、第三は孔子廟の壁の中から発見された。
それらはかなり内容を異にしていたので、それぞれ「斉論」「魯論」「古論」と
呼んで区別されるようになった。
「古論」というのは、古体文字で記されていたからである。
この三種の「論語」は、発見後しばらくの間は、各々そのままの内容で読まれていたが、
後漢以後、彼此参酌(かれこれさんしゃく)して内容を修訂し、註解を加える努力が
張侯、鄭玄、何晏等二三の学者によって払わる。
宋代にいたって、それらを基にしたの「論語註疏」があらわれた。
更に儒教の大家、朱熹は、「大学」、「中庸」、「論語」、「孟子」の四者を合して、
「四書集註」を作った。
爾来(じらい)前者を「古註」と呼び、後者を「新註」と呼ぶならわしになった。
今日最も広く読まれているのは「新註」による「論語」である。
☆
「論語」がはじめて日本に伝来したのは応神天皇の十六年であるが、
それが刊行されたのは、約一千年後の後醍醐天皇の元亨二年である。
その後つぎつぎに伝来した儒教の他の諸経典と共に、先ず宮廷貴族の思想と行動とに
影響を与え、つぎに武家に及んだ。
そして、明治維新にいたるまでの約千五百年間に、儒教は仏教と相並んで国民生活を
支配する最大の精神的基調をなすにいたった。
とりわけ「論語」は、階級の上下をとわず、文字を知る国民の多数に読まれるようになり、
その影響力は、徳川時代以後文字を知らない国民の家庭生活や社会生活にまで及び、
「論語」をはなれては、国民の道徳生活を語ることが出来ないかのような観をさえ
呈するにいたったのである。
しかし、その影響力も明治維新後の西欧文化の伝来と共に、急激に退潮しはじめた。
そして半世紀とはたたないうちに、儒教は全面的に若き世代の多数によって敬遠され、
ついで軽蔑され、最後に忘却され、現在の若き世代の間では、高等の教育をうけた
者でさえ、「四書」「五経」の何であるかを知るものが稀有である。
「論語」のごときも、わずかにその名が知られているだけで、専門の学徒以外に進んで
その内容を知ろうとする欲望をおこすものは、(注)絶無に近い状態である。
続
注)「子や孫に聞かせたい論語」の第一刷発行が2011年なので、近年そうでも
ないかも知れない。
2025年01月16日
論語とは?(下村湖人、曰く)
posted by 成功の道しるべ at 13:38| 下村湖人
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