実は暫く前に川越の熊野神社に行って来た。
神社はパワースポットでもある、2時間くらい滞在した後あちこち歩きまわり
家に帰って来た。
いつもなら、がっつり疲れて休息、しかしこの日は違っていた。
行く時より帰って来た時の方が元気だ!
ハッハー、なるほどさすがパワースポット。
ここで、一つ考察。
1)生気は大地にあって万物を育む。
2)気は生き物すべての生命の源になるものです。
3)気は大地の中をめぐり万物に様々な影響を与えます。
東洋文化学院(風水学-鑑定講座)より
4)良質な気(陽の気)をご自身の住まいに取り入れる。
どんなに家の中を風水的に整えても、肝心の気が良くなければ意味がありません。
大地の中をめぐった気は外から家の中に入り、外に抜けて行きます。
入り口は玄関だけでなく、窓及びベランダがあればその周辺も含まれます。
ここで重要なのは入り口を綺麗にしておくことです。
入り口が汚れていれば、気は悪化されます。
それでは、運気がダウンするのは目にみえています。
この基本を忘れて何をやっても効果は限定的です。
2025年10月28日
風水(運気アップの為に)01
posted by 成功の道しるべ at 11:21| 風水
2025年10月25日
酔古堂剣掃「遊学」
「酔古堂剣掃」の第一章の淡宕の心境もあと一編で終わり。
そこで、少し脱線して本書の中の「遊学」についてを抜粋したい。
遊学という言葉がある。遊ぶ学という普通は遊学というと、どこか遠い所へ出かけて勉強
するくらいにしか考えないが、本当の遊学というのは大変奥深く妙味のある言葉である。
これは漢民族が作った言葉ですから漢語である。
従って中国民族、漢民族の歴史から生まれた言葉です。
漢民族は黄河の流域から興った、その前代の殷民族は遊牧民族、狩猟民族です。
それが漢民族になってようやく黄河の流域に定着して農耕生活を営むようになった。
そこで、最初に困ったのが、黄河の氾濫である。
つまり黄河の水処理に非常に苦しんだ、ほとんど黄河の治水記録といっていい。
それで、いろいろと水と戦ったのだが、何しろあの何千キロという河ですから、
紆余曲折して、ある所に治水工事をやると、水はとんでもない所へ転じて、
思わざる所に大変な災害を引き起こす、苦情が絶えない。そこで長い間、
治水に苦しんで到達した結論は、結局水に抵抗しないということであった。
水に抵抗するとその反動がどこへ行くやらわからない、水を無抵抗にする。
すなわち水を自由に遊ばせる。
そこで水をゆっくりと、無抵抗の状態で自ずからに行かしめ、これを「自適」と言った。
適という字は行くという字、思うままに、つまり無抵抗に行く。
抵抗がないから自然に落ちついて、ゆったりと自ずからにして行く。
これが「優遊自適」であります。
そこで「ゆう(游、遊)」という字はサンズイでもシンニュウでもいい。
サンズイならば水を表したものだし、シンニュウはその水路を表したもので、
黄河の治水工事の結論は、水をして悠々自適せしめるにある。
それは人間でも同じことである、抵抗して戦っていくのは、これは苦しい。
つまり、自ずからにして思うがままに行けるということは、黄河ならぬ人間にも
非常に楽しいことで、それが極致であります。
そこで学問もそういうやり方を遊学という。
「学記」の中に「四焉(しえん)」という非常にいい格言がある。
学問というのは、「焉(これ)を修め、焉を蔵し、焉に息し、焉に遊ぶ」
つまり学問というものは、これを習得して、それを体恤し、それを自在に応用する。
そうすると、ゆったりと無理がない。
抵抗なしに「焉に遊ぶ」ことになる。これが優遊自適である。
それで初めて古人が遊説とか遊学、遊の字をよく使うことがわかる
そこで、少し脱線して本書の中の「遊学」についてを抜粋したい。
遊学という言葉がある。遊ぶ学という普通は遊学というと、どこか遠い所へ出かけて勉強
するくらいにしか考えないが、本当の遊学というのは大変奥深く妙味のある言葉である。
これは漢民族が作った言葉ですから漢語である。
従って中国民族、漢民族の歴史から生まれた言葉です。
漢民族は黄河の流域から興った、その前代の殷民族は遊牧民族、狩猟民族です。
それが漢民族になってようやく黄河の流域に定着して農耕生活を営むようになった。
そこで、最初に困ったのが、黄河の氾濫である。
つまり黄河の水処理に非常に苦しんだ、ほとんど黄河の治水記録といっていい。
それで、いろいろと水と戦ったのだが、何しろあの何千キロという河ですから、
紆余曲折して、ある所に治水工事をやると、水はとんでもない所へ転じて、
思わざる所に大変な災害を引き起こす、苦情が絶えない。そこで長い間、
治水に苦しんで到達した結論は、結局水に抵抗しないということであった。
水に抵抗するとその反動がどこへ行くやらわからない、水を無抵抗にする。
すなわち水を自由に遊ばせる。
そこで水をゆっくりと、無抵抗の状態で自ずからに行かしめ、これを「自適」と言った。
適という字は行くという字、思うままに、つまり無抵抗に行く。
抵抗がないから自然に落ちついて、ゆったりと自ずからにして行く。
これが「優遊自適」であります。
そこで「ゆう(游、遊)」という字はサンズイでもシンニュウでもいい。
サンズイならば水を表したものだし、シンニュウはその水路を表したもので、
黄河の治水工事の結論は、水をして悠々自適せしめるにある。
それは人間でも同じことである、抵抗して戦っていくのは、これは苦しい。
つまり、自ずからにして思うがままに行けるということは、黄河ならぬ人間にも
非常に楽しいことで、それが極致であります。
そこで学問もそういうやり方を遊学という。
「学記」の中に「四焉(しえん)」という非常にいい格言がある。
学問というのは、「焉(これ)を修め、焉を蔵し、焉に息し、焉に遊ぶ」
つまり学問というものは、これを習得して、それを体恤し、それを自在に応用する。
そうすると、ゆったりと無理がない。
抵抗なしに「焉に遊ぶ」ことになる。これが優遊自適である。
それで初めて古人が遊説とか遊学、遊の字をよく使うことがわかる
posted by 成功の道しるべ at 19:15| 酔古堂剣掃
2025年10月24日
酔古堂剣掃09(地を闢くこと数畝。屋を築く数楹)
書き下し文
地を闢(ひら)くこと数畝(ほ)。屋を築く数楹(えい)。
花を挿(さしはさ)みて籬(まがき)を作り。茅(かや)を編みて亭を為(つく)る。
一畝を以って竹樹を蔭(しげ)らしめ。一畝は花果を裁(う)え、
二畝は瓜菜(かさい)を種(う)う。
四壁清曠(せいこう)にして諸(もろもろ)の所有空し。
山童を畜(やしな)い、園に灌(そそ)ぎ、草を薙(か)る。
二三の胡床(こしょう)を置いて亭下に着け、書硯(しょけん)を挟んで以て孤寂を伴とし、
琴奕(きんえき)を携えて以て良友を遅(ま)つ。
凌晨には策を杖き、薄暮言に旋る。此れ亦楽境。
現代語訳
荒地を開拓すること家のまわりを軽く散歩する範囲。
そこに小さな庵を建てる。そして、花を差し込んだ籬を作る。
また、土地の一角に茅を編みてあずまやを作る。
僅かな土地に竹を茂らせ、花や果物の木を植える。
また、瓜や野菜を種える。こういう簡素な生活の中で極めて豊かな、風雅な生活を
営むことができる。純朴な少年と戯れ、草木に水をやり雑草を刈る。
二三の簡素な腰掛けをあずまやに置いて、書を嗜みながら一人孤寂を伴とし
琴や将棋盤、碁盤を用意して良友を待つ。
早朝には杖を突きながら散歩をし、黄昏(たそがれ)書物に親しむ。
これぞ楽境。
地を闢(ひら)くこと数畝(ほ)。屋を築く数楹(えい)。
花を挿(さしはさ)みて籬(まがき)を作り。茅(かや)を編みて亭を為(つく)る。
一畝を以って竹樹を蔭(しげ)らしめ。一畝は花果を裁(う)え、
二畝は瓜菜(かさい)を種(う)う。
四壁清曠(せいこう)にして諸(もろもろ)の所有空し。
山童を畜(やしな)い、園に灌(そそ)ぎ、草を薙(か)る。
二三の胡床(こしょう)を置いて亭下に着け、書硯(しょけん)を挟んで以て孤寂を伴とし、
琴奕(きんえき)を携えて以て良友を遅(ま)つ。
凌晨には策を杖き、薄暮言に旋る。此れ亦楽境。
現代語訳
荒地を開拓すること家のまわりを軽く散歩する範囲。
そこに小さな庵を建てる。そして、花を差し込んだ籬を作る。
また、土地の一角に茅を編みてあずまやを作る。
僅かな土地に竹を茂らせ、花や果物の木を植える。
また、瓜や野菜を種える。こういう簡素な生活の中で極めて豊かな、風雅な生活を
営むことができる。純朴な少年と戯れ、草木に水をやり雑草を刈る。
二三の簡素な腰掛けをあずまやに置いて、書を嗜みながら一人孤寂を伴とし
琴や将棋盤、碁盤を用意して良友を待つ。
早朝には杖を突きながら散歩をし、黄昏(たそがれ)書物に親しむ。
これぞ楽境。
posted by 成功の道しるべ at 22:10| 酔古堂剣掃
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