物語のように読む朝鮮王朝五百年からの転載
少し前に許蘭雪軒(ホナンソロン)について書いた。
これは、その続き。
「洪吉童伝」の作者、許筠は、1605年明の朱之蕃が朝鮮を訪れた際、
ひとかたまりの原稿を見せた。
それは16年前に夭折した姉の遺した一連の漢詩であった。
朱はそのあまりの詩才に驚き中国に持ち帰って「許蘭雪軒集」の名で出版した。
許筠の姉、許蘭雪軒は幼い頃から才に秀で、弟と同じく李達に学んで漢詩を覚えた。
しかし、儒教社会にあっては、女性が詩を詠むことなど言語道断とされ、15才で嫁に
出された。
夫も姑も嫁の詩才に無理解で、却ってそのことによって虐待を受ける始末。
二人の子をなしたが、いずれも幼くして病死した。許蘭雪軒本人も1589年26才の
短い生涯を閉じた。秀吉軍の侵攻が始まる三年前だった。
壬辰、丁酉の倭乱が終わり許筠は、朝鮮での出版が難しい姉の原稿を、中国の知己に託した。
詩集は中国で評判を呼び、その後日本でも刊行された。
女性達のつらい労働を詠んだ詩、子を喪った母の悲哀を詠んだ詩など、社会性に
富んだ詩も多いがここでは、女心をきらりと輝く恋の歌を紹介しよう。
原文 書き下し文
秋淨長湖碧玉流 秋は長湖を浄め、碧玉流る。
蓮花深處繋蘭舟 蓮花深きところに、蘭舟をつなぐ
逢郎隔水投蓮子 郎(きみ)に逢い、水を隔てて蓮子を投げる
或被人知半日羞 或は人に知られるかと、半日を恥ず
漢詩という古い文体の中に宿る、近代を先取りしたような個の輝きに驚かされる。
静かな秋の湖、船をとめ、思いを寄せる男性にそっと蓮の花を投げる私。
最終行の冒頭は「或」ではなく、「遥」とする版もある。
これだと男性との距離を感じさせるが、「或」ひょっとして...と、
微妙な心の動きがたち現れたほうが生き生きとして面白い。
女性が詩を詠むという一点に置いて、否定されなければならなかった許蘭雪軒...。
その詩世界は母国では無視されたままだったが、弟許筠の執念によって、
国際的な評価を得るところとなった。
生前は公にすることが出来なかった一人の女性の思いが、奇跡のように守られ、
時を超えて輝いている。
参考
洪吉童伝-ホン、ギルドンジョン
許筠-ホ、ギュン
李達-イ、ダル
朱之蕃-しゅじばん
壬辰、丁酉-イムジン、チョンユ
2025年01月20日
許蘭雪軒(ホナンソロン)続
posted by 成功の道しるべ at 22:06| 日記
呂氏春秋12(晋の平公、祈黄羊に問うて曰く)
この問答は、公平とは何かを言っている。
書き下し文
晋(しん)の平公(へいこう)、祈黄羊(きこうよう)に問(と)うて曰(いわ)く。
南陽(なんよう)に令(れい)無し。其(そ)れ誰か之(こ)れ為(た)るべき。
対(こた)へて曰く、解狐(かいこ)、可(か)なり。
平公(へいこう)曰く、解狐は子(し)の讎(あだ)に非(あら)ずや。
対(こた)へて曰く、君(きみ)可(か)なるものを問(と)ふ。
臣(しん)の讎(あだ)を問(と)ふに非(あら)ざるなり。
平公曰く。善(よ)し。遂(つい)に之(これ)を用(もち)ふ。
国人(こくじん)善(よ)しと称(しょう)す。
現代語訳
春秋時代、ある時、晋の君主、平公は大臣に今、南陽県では県令が不在である。
そこで、平公が誰をこれに当てたら良いであろうかと、祈黄羊に問うたわけです。
すると祁黄羊は、解狐が良いと言った。
平公曰く、解狐はおまえの仇ではないのか。
祁黄羊は、あなた様は誰が適任かとおっしゃっておるので、私のライバルを問う
ておられるのではありますまい。
よしー、なるほど、、、
そして遂にこれを用いた。
しばらくして、解狐は南陽をきちんと統治し、人々の称賛を受けた。
書き下し文
晋(しん)の平公(へいこう)、祈黄羊(きこうよう)に問(と)うて曰(いわ)く。
南陽(なんよう)に令(れい)無し。其(そ)れ誰か之(こ)れ為(た)るべき。
対(こた)へて曰く、解狐(かいこ)、可(か)なり。
平公(へいこう)曰く、解狐は子(し)の讎(あだ)に非(あら)ずや。
対(こた)へて曰く、君(きみ)可(か)なるものを問(と)ふ。
臣(しん)の讎(あだ)を問(と)ふに非(あら)ざるなり。
平公曰く。善(よ)し。遂(つい)に之(これ)を用(もち)ふ。
国人(こくじん)善(よ)しと称(しょう)す。
現代語訳
春秋時代、ある時、晋の君主、平公は大臣に今、南陽県では県令が不在である。
そこで、平公が誰をこれに当てたら良いであろうかと、祈黄羊に問うたわけです。
すると祁黄羊は、解狐が良いと言った。
平公曰く、解狐はおまえの仇ではないのか。
祁黄羊は、あなた様は誰が適任かとおっしゃっておるので、私のライバルを問う
ておられるのではありますまい。
よしー、なるほど、、、
そして遂にこれを用いた。
しばらくして、解狐は南陽をきちんと統治し、人々の称賛を受けた。
posted by 成功の道しるべ at 14:58| 呂氏春秋
論語とは?完(下村湖人、曰く)
論語についての歴史的な考察や、いわゆる学者諸氏の論説は数多くある。
しかし、下村湖人氏のように自身の考えをこのように、まとめたものも
良いのではないか?
少し長いが、ご容赦願いたい。
「論語」を読む要点の一つは、その時代的背景を一応心得ておくことである。
このことは、「論語」が政治の書であるだけに、政治とは無縁な仏典やバイブルを読む
場合に比して、はるかにその重要度が高い。それについて簡単にふれておきたいと思う。
孔子は西紀前五五二年に生れ、同四七九年七十四才で歿した。
この時代は、中国の歴史の春秋時代の末期、夏・殷・周と受け継いで来た三代の
王朝の最後の王朝たる周室が、全くその権威を失って、十二の諸侯が覇権を争い、
しかもその諸侯も内部的に決して安全ではなく、内乱が頻発して、徐々に政治の実権が
下にうつり、ほとんど無政府的な混乱状態を呈しつつあった時代である。
周王朝の政治組織は諸侯をその下に従えていたという意味でもとより封建制度である。
有力な諸侯の大部分は周室の同族で、同じ宗廟を持ち、祭祀を共にする宗族関係で
周室に結ばれており、しかもこの関係は、氏族を異にする侯国以下との間にも、
社稷(土地の神・穀物の神)を祭ることによって延長されていたのである。
だから、周代の国家は、封建国家というよりも、むしろ祭政一致の宗族国家と
いう方が適当であった。
そして、それに基づいて、天子・諸侯・卿・大夫・士・庶民というように、厳格に
身分が定まっており、祭祀・礼法のごときもその身分に応じてそれぞれの規定があり、
それをみだすことは、国家の秩序や道義をみだす最大の悪徳とされていたのである。
孔子は、かような国家組織の中に生をうけたのであるが、その組織の根本については
何の疑惑も抱いてはいなかった。
それどころか、周祖武王をたすけてその組織に基礎をおいた周公(武王の叔父)は、
彼にとっては、いわゆる古聖人の一人だったのである。
しかも彼の生地魯国(中国山東省曲阜県、当時の魯国昌平郷陬邑)は、周公の子孫の
国で、その宗廟には周公が祭られており、いわば周室の政治と道義の主本尊ともいう
べき位置にあった。
かくて彼は、周室の諸制度について疑惑を抱くどころか、それを至上のものと考え、
誇りをもってその研究に精進することを念願した。
「論語」にいわゆる「十有五にして学に志す」とあるのも、少年時代における彼の、
この意味での精進を物語るものに外ならないのである。
かような彼が、春秋末期の諸侯・諸卿・諸大夫の下剋上や、僣上沙汰や、権力争いや、
利害本位の取引きや、武力抗争等について、深い憂いと怒りとを感じたで
あろうことはいうまでもない。
そしてまた、それがいよいよ彼の研学心や教育熱に拍車をかけ、実際政治に対する
彼の欲望をそそり、そして彼の苦難にみちた諸国巡歴の旅への大きな刺戟になったで
あろうことも、疑いを容れないところである。
論語には、彼のそうした憂いや怒りの言葉が、いたるところに散見される。
否、考えようでは、「論語」の言葉のすべてが、周朝の政治と道義の維持昂揚のための
言葉であったといえないこともない。
そしてここに、論語を読む者の心しなければならない重要な二点があるのである。
その第一は、論語の言葉のあるものは、今日の時代においては、文字どおりに
受け容れられるものではなく、強いて受け容れようとしてはならないということであり、
その第二は、しかし、だからといって、「論語」をただちに時代錯誤の書として早計に
すててしまってはならないということである。
なるほど孔子は、中国周代の民として、周公によって基礎をおかれた当時の諸制度を
讃美し、その精神を生かすことに努力した。
その点で、まぎれもなく彼は封建的宗族国家の忠実な一員であった。
従って彼の言行のあるものは、その表面にあらわれたかぎりにおいて、今日の我々には
むしろ奇異に感じられ、しばしば滑稽にさえ感じられるものがある。
特に、論語の中で彼の坐作進退を記した条下や、彼が祭祀その他の礼の形式に関して
語るのを読む場合においてそうである。
また彼が治者被治者の関係について語る言葉については、おそらく今日の何人も重大な
疑問を抱かずにはいられないであろう。
そして、そうした点から、論語が今の日本人の意識の中で影がうすくなって行くことも、
一応うなずけないことではない。
では、論語は、周代の封建的宗族国家の経典以上の何ものでもないかというと、
決してそうではない。
かりに論語から周代の色をおびていると思われる一切の表現を消し去って見るがいい。
また、今日から見て少しでも時代錯誤だと思われる表現があったら、
それをも遠慮なく消し去って見るがいい。
そのあとに何も残らないかというと、むしろ残るものの多きにおどろくであろう。
しかもそれらはすべて古今を貫き東西を貫く普遍の真理であり、そしてそれらの真理が、
時代錯誤だと思われ、周代の考え方だと思われる表現の底にも、厳として存在している
ことに気づくであろう。
論語を通じて見た孔子は、決して単なる周代の忠実な封建人ではなかった。
またむろん事大的曲学阿世の徒でもなかった。
仁に立脚して知を研き、詩と楽とを愛して調和に生き、敬慎事に当り、勇断事を処し、
剛毅正を守る底の万世の師が、たまたま周代の衣を着、周代の粟を食み、周代の
事を憂え、周代の事に当ったが故に、周代の色を帯びたまでのことなのである。
かくて論語は周代の皮に包まれた真理の果実であるということが出来よう。
われわれはその皮におどろいて果肉をすててはならないし、さればといって、
皮ごとうのみにしてもならない。
皮をはいで果肉をたべる、これが要するに「論語」の正しい読みかたなのである。
完
しかし、下村湖人氏のように自身の考えをこのように、まとめたものも
良いのではないか?
少し長いが、ご容赦願いたい。
「論語」を読む要点の一つは、その時代的背景を一応心得ておくことである。
このことは、「論語」が政治の書であるだけに、政治とは無縁な仏典やバイブルを読む
場合に比して、はるかにその重要度が高い。それについて簡単にふれておきたいと思う。
孔子は西紀前五五二年に生れ、同四七九年七十四才で歿した。
この時代は、中国の歴史の春秋時代の末期、夏・殷・周と受け継いで来た三代の
王朝の最後の王朝たる周室が、全くその権威を失って、十二の諸侯が覇権を争い、
しかもその諸侯も内部的に決して安全ではなく、内乱が頻発して、徐々に政治の実権が
下にうつり、ほとんど無政府的な混乱状態を呈しつつあった時代である。
周王朝の政治組織は諸侯をその下に従えていたという意味でもとより封建制度である。
有力な諸侯の大部分は周室の同族で、同じ宗廟を持ち、祭祀を共にする宗族関係で
周室に結ばれており、しかもこの関係は、氏族を異にする侯国以下との間にも、
社稷(土地の神・穀物の神)を祭ることによって延長されていたのである。
だから、周代の国家は、封建国家というよりも、むしろ祭政一致の宗族国家と
いう方が適当であった。
そして、それに基づいて、天子・諸侯・卿・大夫・士・庶民というように、厳格に
身分が定まっており、祭祀・礼法のごときもその身分に応じてそれぞれの規定があり、
それをみだすことは、国家の秩序や道義をみだす最大の悪徳とされていたのである。
孔子は、かような国家組織の中に生をうけたのであるが、その組織の根本については
何の疑惑も抱いてはいなかった。
それどころか、周祖武王をたすけてその組織に基礎をおいた周公(武王の叔父)は、
彼にとっては、いわゆる古聖人の一人だったのである。
しかも彼の生地魯国(中国山東省曲阜県、当時の魯国昌平郷陬邑)は、周公の子孫の
国で、その宗廟には周公が祭られており、いわば周室の政治と道義の主本尊ともいう
べき位置にあった。
かくて彼は、周室の諸制度について疑惑を抱くどころか、それを至上のものと考え、
誇りをもってその研究に精進することを念願した。
「論語」にいわゆる「十有五にして学に志す」とあるのも、少年時代における彼の、
この意味での精進を物語るものに外ならないのである。
かような彼が、春秋末期の諸侯・諸卿・諸大夫の下剋上や、僣上沙汰や、権力争いや、
利害本位の取引きや、武力抗争等について、深い憂いと怒りとを感じたで
あろうことはいうまでもない。
そしてまた、それがいよいよ彼の研学心や教育熱に拍車をかけ、実際政治に対する
彼の欲望をそそり、そして彼の苦難にみちた諸国巡歴の旅への大きな刺戟になったで
あろうことも、疑いを容れないところである。
論語には、彼のそうした憂いや怒りの言葉が、いたるところに散見される。
否、考えようでは、「論語」の言葉のすべてが、周朝の政治と道義の維持昂揚のための
言葉であったといえないこともない。
そしてここに、論語を読む者の心しなければならない重要な二点があるのである。
その第一は、論語の言葉のあるものは、今日の時代においては、文字どおりに
受け容れられるものではなく、強いて受け容れようとしてはならないということであり、
その第二は、しかし、だからといって、「論語」をただちに時代錯誤の書として早計に
すててしまってはならないということである。
なるほど孔子は、中国周代の民として、周公によって基礎をおかれた当時の諸制度を
讃美し、その精神を生かすことに努力した。
その点で、まぎれもなく彼は封建的宗族国家の忠実な一員であった。
従って彼の言行のあるものは、その表面にあらわれたかぎりにおいて、今日の我々には
むしろ奇異に感じられ、しばしば滑稽にさえ感じられるものがある。
特に、論語の中で彼の坐作進退を記した条下や、彼が祭祀その他の礼の形式に関して
語るのを読む場合においてそうである。
また彼が治者被治者の関係について語る言葉については、おそらく今日の何人も重大な
疑問を抱かずにはいられないであろう。
そして、そうした点から、論語が今の日本人の意識の中で影がうすくなって行くことも、
一応うなずけないことではない。
では、論語は、周代の封建的宗族国家の経典以上の何ものでもないかというと、
決してそうではない。
かりに論語から周代の色をおびていると思われる一切の表現を消し去って見るがいい。
また、今日から見て少しでも時代錯誤だと思われる表現があったら、
それをも遠慮なく消し去って見るがいい。
そのあとに何も残らないかというと、むしろ残るものの多きにおどろくであろう。
しかもそれらはすべて古今を貫き東西を貫く普遍の真理であり、そしてそれらの真理が、
時代錯誤だと思われ、周代の考え方だと思われる表現の底にも、厳として存在している
ことに気づくであろう。
論語を通じて見た孔子は、決して単なる周代の忠実な封建人ではなかった。
またむろん事大的曲学阿世の徒でもなかった。
仁に立脚して知を研き、詩と楽とを愛して調和に生き、敬慎事に当り、勇断事を処し、
剛毅正を守る底の万世の師が、たまたま周代の衣を着、周代の粟を食み、周代の
事を憂え、周代の事に当ったが故に、周代の色を帯びたまでのことなのである。
かくて論語は周代の皮に包まれた真理の果実であるということが出来よう。
われわれはその皮におどろいて果肉をすててはならないし、さればといって、
皮ごとうのみにしてもならない。
皮をはいで果肉をたべる、これが要するに「論語」の正しい読みかたなのである。
完
posted by 成功の道しるべ at 11:40| 下村湖人
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