人は生まれながらにして高い精神性を持っていればそうでない人もいる。
呻吟語では、人間を上、中、下、に分類している。、
同じ言葉を聞いても、受け取る人によってその感じ方は、それぞれ。
話は、少し飛ぶが。
パソコンで何か調べものをする時、お気に入りのカバー曲を聞いている。
マー、二宮愛がカバーしている。「東京」「Honesty」「ファーストラヴ」
「さよならも言わないままで」等々。
不思議と作業がはかどる。
それを聞きながら、時々CMが入るので何気なく聞いている。
その中で中村天風氏の積極的な心構えが大切だというメーッセージに
似たような言説があったので印象に残った。
西洋にも思考は、現実化するというナポレオン、ヒルの著作がある。
強く思えば思う程、現実化するというもの。
ただ、その使い方が重要。
1)私は幸福になりたい。
2)私は幸福である。
これは一見同じように見えるが?、全く逆なことがお分かりだろうか?
1)の、「私は幸福になりたい」は、すなわち今が不幸だと案に思っている。
という証拠。
これでは、心の中で私は、不幸、不幸、と思っているのと一緒だというのだ。
それでは、幸福にはなりえない。
何事も、成った状態をイメージする、言葉に出して反復する。
斎藤一人氏の言うように、何か問題が起こった場合に「それは簡単なんだ」
と言うのと機をいつにしている。
2025年01月23日
呂氏春秋15(太上は諸を己に反す)
この記事で教科書にしたのは「天地にかなう人間の生き方」
/経世の書「呂氏春秋」を読む。
安岡正篤著
第一講-私欲を去り、公に尽くす。(全15編)
書き下し文
太上(たいじょう)は諸(これ)を己(おのれ)に反(かえ))す。
其(そ)の次は諸(これ)を人に求む。其の之(これ)を素(もと)むること
弥々(いよいよ)遠ければ其の之を推(お)すこと弥々(いよいよ)疎(そ)に、
其の之(これ)を求むること弥々彊(つよ)き者は之を失ふこと弥々遠し。」
現代語訳
一番は何事によらず、まず自分に反(か)える。その次はこれを人に求む。
その求めることが信頼出来る人ならよいが、地位、財産があるなど外面的な
繋がりのある人に求める。これほど危ういということはない。
/経世の書「呂氏春秋」を読む。
安岡正篤著
第一講-私欲を去り、公に尽くす。(全15編)
書き下し文
太上(たいじょう)は諸(これ)を己(おのれ)に反(かえ))す。
其(そ)の次は諸(これ)を人に求む。其の之(これ)を素(もと)むること
弥々(いよいよ)遠ければ其の之を推(お)すこと弥々(いよいよ)疎(そ)に、
其の之(これ)を求むること弥々彊(つよ)き者は之を失ふこと弥々遠し。」
現代語訳
一番は何事によらず、まず自分に反(か)える。その次はこれを人に求む。
その求めることが信頼出来る人ならよいが、地位、財産があるなど外面的な
繋がりのある人に求める。これほど危ういということはない。
posted by 成功の道しるべ at 06:31| 呂氏春秋
2025年01月22日
呂氏春秋14(善い哉祈黄羊の論や)
書き下し文
孔子之(これ)を聞いて曰(いわ)く、善(よ)い哉(かな)祈黄羊(きこうよう)の論や。
外挙(がいきょ)、讎(あだ)を避(さ)けず。内挙(ないきょ)、子を避けず。
祈黄羊は公と謂(い)うべし。
現代語訳
孔子は、これを聞いて、善いかな祈黄羊の論や。外から挙(あ)げるのに
讎(あだ)を避けない。
内から挙げるのに自分の子供でも遠慮しない。
祈黄羊ような人こそ、公と言うべきである。
孔子之(これ)を聞いて曰(いわ)く、善(よ)い哉(かな)祈黄羊(きこうよう)の論や。
外挙(がいきょ)、讎(あだ)を避(さ)けず。内挙(ないきょ)、子を避けず。
祈黄羊は公と謂(い)うべし。
現代語訳
孔子は、これを聞いて、善いかな祈黄羊の論や。外から挙(あ)げるのに
讎(あだ)を避けない。
内から挙げるのに自分の子供でも遠慮しない。
祈黄羊ような人こそ、公と言うべきである。
posted by 成功の道しるべ at 14:39| 呂氏春秋
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