2024年12月30日

「式子内親王伝―面影びとは法然」

実はここ暫くの間、「式子内親王伝―面影びとは法然」
/石丸晶子著を読んでいた。
当時は平家の全盛時代から滅亡、鎌倉幕府の創設へとしかも、
天変地異による世の中の混乱。
その中で強く生き抜いた式子内親王に、まず敬意を表したい。

式子内親王は皇女として生まれ、少女期から賀茂斎院として神に仕え、
恋することが許されない身分で独身生活を続けた。
その一方で、この歌のように「忍ぶ恋」を多く詠んでいる。

このため、式子内親王の思い人は、邸に出入りしていた13歳年下の
藤原定家であるとか、晩年に手紙のやり取りがあったとされる
浄土宗の開祖、法然であったなどという諸説が入り乱れている。

また、大変な勉強家で、源氏物語や古今和歌集など当時の古典を
数く多く読み十分な教養を身につけた一流の文化人でした。

女性の天皇、皇族の歌は、持統天皇と式子内親王の2首だけが
百人一首に収められています。

式子内親王の代表歌。
玉の緒(お)よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

現代語訳
「玉の緒」は命のことで、私の命よ、絶えるなら絶えてしまえ、
生き長らえていると自分の恋を秘めておくことができなくなるから。

とても虚構を詠んだと思えない魂の叫びを感じます。
ここまでの境地に達した、まさしく一流の文化人です。
世の中に様々な名人はいても、ここまでの境地に達した人物は
そういないのではないでしょうか。

これは、藤原定家 (ふじわらのていか )が選び、小倉百人一首に収められています。
当時は、「題詠」(だいえい)といい、与えられたテーマに沿って
歌を詠むことが多かった時代です。
すなわち自分の体験ををそのまま詠むのではなく、他の人の身になって
与えられたテーマを詠む、虚構の世界でした。

さて本を読んだ感想ですが。
もう一度読み返すと、また違った感想になるかもしれませんが。
式子内親王の忍ぶ恋の相手は、法然。
それを身近にいて知っていた藤原定家。
そして藤原定家も式子内親王に、この歌のような想いを抱いていた。
後世の人に自分の想いを託して、小倉百人一首にこの歌を選んだ。
それが、藤原定家の本意ではないか?

参考)
当時は正道門(自力教)が多数を占め法然の説いた浄土門(他力教)は
新参者でした。






posted by 成功の道しるべ at 23:14| 日記

2024年12月24日

論語(君子は上達し)

憲問第十四24

書き下し文
君子は上達(じょうたつ)し、小人(しょうじん)は下(か)達す。

現代語訳
優れた人は人生観、世界観が道に則り心の高みに達するが
普通の人は、日々の生活に心を使い、それぞれの知識、技能に
達するが心の高みは得られない。

現代語訳(1)
立派な人物は、教養や道徳などを身につけようと努力するが、
つまらない人物は小手先の技能ばかりを身につけようとする。

現代語訳(2)
孔先生がおっしゃった、人の上に立つ立派な人・君子は、徳を積むように
努め向上し、君子以外の一般の人は努力をしないので向上しない。

現代語訳(3)
老先生の教え。
教養人は根本や全体(上)が分かる。
知識人は末端や部分(下)について知っている。
(加地伸行訳)

解説
現代語訳には、いろいろな解釈があっていいと思っている。
読む人のそれぞれの立場によって、同じ言葉でも受ける印象が
違って当たり前。
posted by 成功の道しるべ at 18:33| 論語

2024年12月23日

埼玉(さきたま)古墳

古墳の事を書いたのでもう一つ!

埼玉の地名の元になったと云う埼玉(さきたま)古墳。
JR行田駅から市内循環バスに乗り多分30分位。
埼玉古墳公園で下車する、何分歩いたか記憶がさだかではないが
途中スーパー銭湯の看板があったような無かったような。

近くに行くと公園のような広い敷地が見えるので直ぐわかる。
記憶では野球場より広い印象、敷地内には多分8基位の様々な
大きさの古墳があり。博物館も併設されている。
そこで初めて勾玉なるものを作った。
材料は滑石で、指導員が丁寧に教えてくれる。
今はないと思われるがバス停の近くにお土産店がありそこで
数個滑石を買った。

特に埼玉古墳の周辺を拡大したものだ。
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関東周辺の古墳の分布図を示す。
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埼玉古墳の全景図。
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下図は、奥の山古墳。
【墳形】 前方後円墳
【規模】 全長70m。後円部の直径43m、高さ6.8m。
      前方部の幅47m、高さ7.4m。
【築造】 6世紀中頃
行田市渡柳(わたりやなぎ)地区には「渡柳三大墳」と呼ばれる
3つの古墳があり、この古墳は東から見て一番奥に位置するため、
奥の山古墳と呼ばれている。
3つの古墳のうち、一番東側にあった戸場口山(とばくちやま)
古墳は、すでに宅地化されてしまって、現在は墳丘は残っていない。
このため、「渡柳三大墳」は奥の山古墳と中ノ山古墳だけとなり、
埼玉古墳群に組み入れられている。

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解説
古墳時代、このあたりは、すぐ東が東京湾につながる埼玉沼という
大きな湖に突き出た半島だったという。
してみれば、海上交通の拠点として発展したことは疑いない。
よって、湖に面した半島の先端は、北武蔵に盤踞した氏族に
とっては格好の奥津城だったのだろう。
posted by 成功の道しるべ at 13:07| 日記
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