一つ前のブログで論語の「学而(がくじ)第一」について書いた。
そうすると、どうしてもこれを述べないわけにはいかない。
「学問の四焉(シエン)」のこと。
これは「礼記」の中の一篇である「学記」に集録されている言葉。
学問の習得過程を比喩的に述べたもの。
第一が修焉、第二が蔵焉、第三が息焉、第四が遊焉。
第一が、之(これ)を修め、次に焉(これ)を蔵し、
之(これ)を息し、之(これ)に遊ぶ。
意味する所。
第一に、之を修める、すなわち学問でも技能であれそれを習う。
第二は、その習い覚えたものを内に蓄える、すなわち蔵する。
第三に、蔵したものを様々に整理し分類、統合する。
第四に、そこではじめて身に付けたものを、自由自在に使いこなせる。
よくよく考えてみると確かにその通り。
古人の洞察力には、恐れ入る。
学問の目的(人間の本質的完成)
なぜ学ぶのか、学問の目的とは何か?
私の尊敬する安岡 正篤先生は、「知命と立命」の
中でこのように述べている。
「学問の目的は、人間の本質的完成の為と」
学問をする上で参考になるのが、論語の中にある。
そこで論語の「学而(がくじ)第一」から
「子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや」
意味はこうだ、ためになる本を読み、時々思い出しては復習すること。
それは、実に嬉しいことではないか。
または、その時に相応しい本を読んで教養を高める。
実に嬉しいことではないか。
この章もいろいろな解釈があり、それはそれで価値がある。
人にそれぞれ性格があるように、本質を外れなければ、その人に合った
解釈で問題無い。
私はこのように解釈する。
「常々本を読んで教養を高め何事にも対処出きるように準備を
しておく。そうすると、何か問題が起きた時に、これには
あの本に解決の糸口があったと思いだしタイムリーに学び直して
その問題を解くことが出来る。」
私の尊敬する安岡 正篤先生は、「知命と立命」の
中でこのように述べている。
「学問の目的は、人間の本質的完成の為と」
学問をする上で参考になるのが、論語の中にある。
そこで論語の「学而(がくじ)第一」から
「子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや」
意味はこうだ、ためになる本を読み、時々思い出しては復習すること。
それは、実に嬉しいことではないか。
または、その時に相応しい本を読んで教養を高める。
実に嬉しいことではないか。
この章もいろいろな解釈があり、それはそれで価値がある。
人にそれぞれ性格があるように、本質を外れなければ、その人に合った
解釈で問題無い。
私はこのように解釈する。
「常々本を読んで教養を高め何事にも対処出きるように準備を
しておく。そうすると、何か問題が起きた時に、これには
あの本に解決の糸口があったと思いだしタイムリーに学び直して
その問題を解くことが出来る。」
posted by 成功の道しるべ at 11:42| 日記
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