2014年03月20日

言志録、第二(太上は天を師)

前のブログで菜根譚から引用したので、次は佐藤一斎の『言志録』から
述べてみたい。

立志と言えばこの『言志録』を除くわけにはいかない。

その第ニ条 天を師とす

太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす。

一般的な訳は以下
最上なのは、天を師とし、二番目は立派な人を師とし、三番目は経典を師とす。
ではもう少し説明を加えたい。

最上の道は天に仕えること、すなわち己の天命を知ってそれに邁進すること。
しかし、そう簡単にはそれが見つかるはずは無い。
それでその道に通じた先生に教えを乞う、 それが「人を師とし」。
その師が、弟子にあれを読めこれを実践しなさい等指導する。
これが「経典を師」という言葉につながる。

大体初めから己の天命を知る人等まれである。
様々な人、物、体験をつむことによって到達する。

しかし、第一条で一斎先生はキリスト教のジャン・カルヴァンの予定説のような
ことを述べている。それについては、別途述べるつもり。
私の感想では、ほとんどの人が天命云々等考えもしない、ということを諭す意味で
そのようなことを言われたのではないかと思う。
posted by 成功の道しるべ at 20:08| 日記

菜根譚(事業文章)

以下は菜根譚の前集の148編からの引用。

事業文章は、身に随(したが)いて銷毀(しょうき)するも、
而(しか)して精神は万古(ばんこ)に新たなるが如し。
功名富貴は、世を逐(お)いて転移するも、而(しか)して
気節(きせつ)は千載(せんざい)に一日なり。
君子、信(まこと)に、当(まさ)に彼を以て此に易(か)うべからず。

事業や教養は、一時的な虚飾であって決して永遠に伝わる
ものではない。
もし身が没すれば、これとともに事業文章も消えうせてなくなって
しまうものである。
然れども、この事業文章を超越した人の大精神だけは万古に
変化することなく常に生き生きとして新たなる様相である。
功名、富貴もこれと同様である。
決して永遠に存するものではない。
しかしそれを成した人間の気節は、世の中の移ろいの中で変わる
ことなく、人々の耳目に明らかに残っているのである。
それゆえ君子は一時的な事業文章などをもって、彼の永遠な
大精神や気節には代えないのである。

昨日の呻吟語(しんぎんご)の内容とほぼ一致する。
菜根譚(さいこんたん)については、機会があれば説明したい。

どちらも人として、人格の完成を目指す内容。
ここで私がもう一つ加えたいと思うのは、このブログの題である
立志、すなわち天命を果たす事によって、それが成される。
posted by 成功の道しるべ at 10:03| 日記
検索ボックス