2024年12月10日

石川啄木詩歌集

本棚の整理をしてカバーをしていたので、何気なく手に取ってみた。
それが、石川啄木詩歌集。

彼の詩も歌も陰気なものが多い。
その中でも韻が良く、巷間広く読まれていると思われる詩を二つ。
表題/一握の砂の煙から
1)不来方(こずかた)のお城のあとの草に臥(ね)て、空に吸はれし、十五の心。

2)ふるさとの山に向ひて言うことなし、ふるさとの山はありがたきかな

1)は盛岡の城跡公園にその石碑が有ったような記憶?
posted by 成功の道しるべ at 11:09| 日記

知識、見識、胆識(続)

小生の文と違って格調が高いので、そのまま転載します。

「見識」というものは「知識」とは違います。
「知識」を得ることは簡単ですが、「見識」というものは、性命より生ずる
理想を追及して、初めて得られるものです。
即ち理想に照らして、現実の複雑な経験を断定するものであります。
人生に大事なものは知識より見識であります。
我々はいくら知識があり、学問があっても、日常生活の中の些細な問題さえ
決定できぬことが多い。
偉い学者といわれる人が、つまらぬ一瑣事に囚われるということは、
つまり知識と見識が違うからです。
したがって見識というものは一つの決断力であり、これは人生において
直ちに行為となって現われなければならぬ、決断は同時に行為でなければならぬ。
したがって見識というものは、実践的でなければならぬ。

ところが見識が実践的になるには、またここに一つの勇気がいるわけである。
この実践的勇気を称して「胆力」といいます。
だから見識というものは胆力でなければならぬのであります。
見識は進んでいえば「胆識」でなければならぬ。
この見識を胆識にまで、つまり「胆力のある見識」にするには
理想というものが一貫不変でなければならぬ。
本物の志気になればなるほど、見識は胆識になってくる。

この理想の一貫不変性を称して「気節」とか「節操」とか「信」というのであります。
そうすると、我々のささやかな生活、刹那的生活が、理想という遠大な
ものに結ばれることによって、それだけ大きさを生んでくるわけです。
人間生活、自己自身に大きさを生んでくる。
これを称して「器」とか「度」とか「量」とかいいます。
これを結んで「度量」とか「器量」ともいいます。

「あの人は器量人である」「あの人は度量がある」ということの本当の意味は、
いかに遠大なる理想を持ち、いかに見識・気節があるかということであります。
器量ができてくると、それだけ理想と現実とが錬磨されてくるから
ますます深い見識が出来てくる、智慧が出来てくる。
つまり人間の深さというものが生じ、それが洗練されてくるものですから、
そこに「潤い」あるいは「趣」といった情操がにじみ出てくるのです。

そのようにして人間が本当に生きてくるにしたがって、天地の法則のとおり、
人間の性命が躍動してくるから、いわゆるリズミカルになって、
「風韻」というものが生じてくる。
元気というものから志気となり、胆識となり、気節となり、器量となり、
人間の造詣、薀蓄となり、それが独特の情操風格を帯びてくる。
これらが人物であることの根本問題中の根本問題であります。
こういうものを備えてこなければ、人物とはいえない。
人物を練る、人物を養うということは、こういうことを練ることです。

こういう文を読むと自身の浅学菲才を恥じ入るばかりです。
posted by 成功の道しるべ at 00:25| 日記

知識、見識、胆識

前節の論語の言葉
「子夏曰く-博学びて篤く志ざし、切に問いて近く思おもう。
 仁其の中に在り。」
これに関連して思い当たることがあるので、少し述べてみたい。
小生の先生の言、出典は忘れてしまったが、なかなか含蓄がある。

知識は大事である、人格形成の土台となるからだ。
だが、知識はたいてい雑識程度で終わる。
雑識は人格を統一する力にはならない。
その知識がいろんな体験を積み、人生的修行を重ねることで、見識になっていく。
見識は、物事を判断する基準になる。
判断したものを実行する、その、勇気、度胸、これが胆識である。
いかに知識、見識があっても実行しなければ、実生活も事業も立派に出来ない。
胆識を養うことは、リーダーの不可欠な要素である。

次の頁でもう少し分り易く説明する。

以上


posted by 成功の道しるべ at 00:13| 日記
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